日本の金融・経済の流れから学ぶ、将来に向けた投資先は?|フェリス女学院大学 国際交流学部 齊藤直教授
皆さんは、これからの日本はどのような道を歩むと考えていますか?人にとっては、あまりポジティブな印象を持てないかもしれません。
日本で生活していく以上、少しでも希望を見出し、自分の将来に期待を持てたほうがいいですよね。
そこで、今回はフェリス女学院大学で主に経済史を研究されている、齊藤直(さいとうなお)教授にインタビューを実施。
これからの日本が何が求められ何が必要なのか、日本の金融・経済史を踏まえつつ、日本の将来についてお聞きしていきます。
日本の未来に希望を持ちたい方、日本経済をあらためて理解したい方は、ぜひ当記事をご参照ください。常に変化する世の中で、新たな一歩を踏み出すためのヒントが得られるでしょう。
インタビュー日:2023年10月18日
インタビューを受けていただいた人
齊藤 直
フェリス女学院大学 国際交流学部国際交流学科 教授
1974年愛知県生まれ。1998年早稲田大学政治経済学部卒業。2009年博士(商学)早稲田大学。
2010年フェリス女学院大学国際交流学部准教授、2017年同教授、現在に至る。
専門分野は、日本経済史、金融史。
主な著書
『国策会社の経営史』(共著:岩波書店、2021年)
『産業経営史シリーズ11:金融業』(共編著:日本経営史研究所、2019年)
『現代日本経済(第4版)』(共著:有斐閣、2019年)
「1930年代における株式取引:東京株式取引所の銘柄別売買高に関する検討を中心に」(立教経済学研究、2023年)
「戦前日本における『変態増資』と株式時価発行:日本鋼管の事例を中心に」(証券経済研究、2018年)
2010年フェリス女学院大学国際交流学部准教授、2017年同教授、現在に至る。
専門分野は、日本経済史、金融史。
主な著書
『国策会社の経営史』(共著:岩波書店、2021年)
『産業経営史シリーズ11:金融業』(共編著:日本経営史研究所、2019年)
『現代日本経済(第4版)』(共著:有斐閣、2019年)
「1930年代における株式取引:東京株式取引所の銘柄別売買高に関する検討を中心に」(立教経済学研究、2023年)
「戦前日本における『変態増資』と株式時価発行:日本鋼管の事例を中心に」(証券経済研究、2018年)
目次
戦前・戦時中の金融史
戦前の金融市場は世界トップだった?!
――――先生は日本経済史を研究されていますが、具体的にどのような研究をされていますか?日本経済史は、文字通り日本の経済の歴史を指していますが、その研究対象の幅は広くなっています。その中で私は金融史を専門としており、特に1920〜1930年代の企業金融や資本市場を研究中です。
今日に生きる私たちのイメージからすると、当時の日本は発展途上で、欧米に追いつけ追い越せという状況にあったと思いがちです。
しかし、実際には、当時の日本の資本市場は非常に大きく、特に株式の売買高では圧倒的に世界トップだったんです。当時の米国はもちろん、1990年代の先進諸国と比較しても、上位に入るくらいの規模でした。
このようなことから、当時の日本は資本市場中心の金融システムだったと先行研究で言われています。
――――戦前、日本の資本市場は活発だったんですね。
これだけ聞くと、当時の日本経済は十分に発展していたという印象を受けますよね。
そこで売買高の中身を調べてみると、売買高の大部分が短期清算取引で占められていました。清算取引とは、今で言うところの先物取引を指しており、一定期間先に受け渡しを約束する取引手法です。しかも清算取引では差金決済が行われるのが通常でした。想像されるような、所有権の移転を伴うような取引ではなかったのです。
さらに、取引された銘柄を調べてみると、1930年代にはたった3銘柄の売買高だけで短期清算取引全体の7割程度を占めていました。具体的な銘柄は、東京株式取引所新株・大阪株式取引所新株・日本産業旧株です。これに鐘淵紡績新株・帝国人造絹糸旧株などいくつかの銘柄を加えると、8割程度に達します。
つまり、1930年代の日本の株式市場は、上記の限られた銘柄の短期清算取引のみで、世界トップの売買高を牽引していたと言えるんです。
――――当時の金融市場は、私たちのイメージと全然かけ離れていますね。
多くの人が想像する通り、資本市場は数多くの商品が高い流動性で取引されていて、妥当な価格が形成されているイメージがあると思います。
戦前についても、頻繁に取引されている銘柄は限られますが、それらの銘柄については価格形成における情報の効率性が高かったのではないか、という意見もあります。当時から、他の投資家を抜け駆けして自分だけ儲けることは難しいという意味で、公平な市場という面はあったといえるかもしれません。
とはいえ、たった数銘柄の売買で世界トップの資本市場だったと評価するのは、いささかの違和感を抱くのではないでしょうか。
歴史研究にとって、地道に当時のデータを集めて検証することが重要です。例えば、当時の東京株式取引所の月報は国会図書館で閲覧できるので、足を運んで情報を入力することもあります。
――――他にも、金融市場で今日と違う点はありますか?
今日、ニュースや新聞で報道される株価は、1日の終値ですよね。投資をしていなくても、なんとなく終値が重要な情報であることはわかると思います。
当時も同様で、終値は重要な情報でしたが、東京株式取引所の売買だと午前中の終値が重要視されていたんです。
先ほど紹介した短期清算取引では、1日目の午後と2日目の午前という実質1日間を単位とした先物取引を行っていて、受渡に適用される株価が2日目の午前の終値でした。
当時の投資家にとっても、短期清算取引が最も関心が高い取引方法であったため、午前の終値が1日の終値としての意味を持っていました。
今ならスマホですぐに株価がわかりますが、当時の人たちが株価を見るには、「株式日報」を取る必要がありました。
この日報を見てみると、午前中の終値が記載されています。この日報が夕方に配達されますので、投資家たちは夕方には午前の終値を知ることができたわけです。
――――生活上の1日が終わるタイミングで、最も重要であった短期清算取引の午前の終値を知ることができたんですね。
今日の金融市場が形成された背景
――――戦前の株式市場は短期清算取引が中心でしたが、戦後はどのように変化したのでしょうか?株式市場についていえば、戦時統制と戦後改革を経て、取引所での清算取引は廃止されますので、戦前とは全く異なる特徴を持つ市場になります。
それに伴って、証券会社についても大きな変化がありました。
今日の証券会社といえば、全国に支店を構えている大規模な企業をイメージしますよね。ただ、これらのいわゆる大手証券会社は、戦時中の資本市場の変化に合わせて成長してきました。
戦前の証券業の中心は、実は個人商店とでもいうべき小規模な業者が担っていました。
先ほども申し上げたように、戦前の株式市場は短期清算取引が中心でした。そして清算取引には取引所集中義務があり、それを担うのは仲買人(後に取引員)と呼ばれる正式な資格を持つ証券業者でした。
取引所での売買が認められる仲買人は、最も格式高い業者だったといえます。
清算取引の売買高が大きかったこともあり、仲買人は大きな収益を得られます。例えば、東京都文京区の目白台に「小布施坂」という地名がありますが、東京株式取引所の仲買人だった小布施新三郎さんの邸宅があったことが由来となっています。
つまり、個人商店と言えるくらいの規模でありながら、大量の取引を担っていたため、地名に影響を及ぼすほどの経済力を持っていたんです。
――――戦前の証券業は個人商店のような業者によって担われていたんですね。では、何がきっかけで今日の大手証券会社が生まれてきたんでしょうか?
戦時中、公社債の発行量が増加したことがきっかけです。
戦時期には財政赤字の拡大に対応して国債の発行が増加し、国債以外にもさまざまな債券が発行されます。それら大量の債券を消化することが必要になるわけです。
先ほど紹介した仲買人(取引員)は支店を設けることが認められておらず、1つの営業所しか持てなかったんです。これは大量の債券を売り捌くうえでは不利な条件になります。
一方、今日の大手証券会社と言われる、野村證券・大和証券・SMBC日興証券は、元々公社債を取り扱う証券業者でした。それらの公社債業者は、支店開設を制約されておらず、実際に債券の売り捌きのために複数の支店を有していました。
戦時期に大量の債券を投資家に売り捌くためには、全国に支店を構えている証券業者が優位です。
必然的に、全国で公社債を販売できる証券業者の地位が高まって、営業所が1つしかない仲買人(取引員)に取って代わりました。そして戦後の大手証券会社へと成長することになります。
――――証券業は、戦後の有力行が戦前から存在していた銀行業とは違う歴史を辿ってきたんですね。
そうですね。ただ共通して言えることは、どちらも時代の変化に対応できた企業が生き残っていることです。
経済がずっと安定して推移することはなく、どこかで必ず変化が訪れることは、ここまでお話した内容からも理解できるでしょう。
戦後の日本経済の変化
キャッチアップ型だから機能した銀行中心の経済システム
――――では、戦後の日本経済が発展したのは、どのような要因があったんですか?さまざまな要因があるのですが、1つ言えるのは銀行中心の金融システムですね。
戦後の日本経済は、欧米先進国をモデルとしたキャッチアップ型の成長を実現しました。発展途上段階にあるうちは、海外に自国よりも進んだ技術が多く存在しますので、それを導入し、自国の市場に合うように調整することにより、自前の技術開発に伴うリスクを抑えながら成長することができます。
海外からの技術導入に頼る場合、成長軌道はある程度明確になっているので、毎回異なる投資家から資金を集めるよりも、1つの銀行から継続的に融資を受ける方が、効率的に事業を成長させられます。
銀行にとっても、企業と長期的な関係を築けば情報が蓄積されるので、融資におけるリスク判断もしやすくなります。
このように、銀行を中心とした金融システムがうまく機能したことで、戦後の日本経済は大きく発展しました。
銀行中心から資本市場中心の経済システムへ
――――戦後の日本経済が成長できたのは、銀行の存在が大きかったんですね。ただ、今の日本経済は停滞している印象が強くなっています。現在の日本経済は停滞していると言われていますが、そう見えるのはキャッチアップ型で日本経済が十分に成長し、先進国の仲間入りを果たしたからです。先進国の仲間入りを通り越して、衰退する局面に入っていると感じてしまうこともありますが・・・。
それはさておき、近年までに日本は技術力において世界のトップランナーとなり、他国からモデルにされる存在となっています。そこからさらに成長するには新たな1歩を進めること、すなわち新しい技術を開発することが求められます。
ということは、研究開発への投資が必要不可欠です。当然、成功するかわからない不確実性の高い状況ですので、複数のプロジェクトに投資する必要があります。そのうち1つでも成功するプロジェクトが出れば万々歳というような状況です。
このように多くのプロジェクトから勝者となるプロジェクトを選抜する過程を「ウィナーピッキング」と呼びます。つまり、今の日本経済はキャッチアップ型から、数ある投資先から当たりを選ぶ「ウィナーピッキング型」の経済に移行したということです。
――――では、これからは何が日本経済を支えていくのでしょうか?
「ウィナーピッキング型」の経済システムを支えるには、銀行よりも資本市場が適しています。
なぜなら、これから大きく成長する投資先を見つけるのは、銀行よりも資本市場の方が得意だからです。キャッチアップ型の経済では大きな役割を果たした銀行ですが、何が成功するか不透明な状況で、多くのプロジェクトのなかから適切な案件を見つけ出して融資するのはとても難しいことですよね。
それを踏まえれば、1980年代に金融自由化がおこなわれ、資金調達先が銀行である必要がなくなったのは、時代の流れとして自然でしょう。
経済の変化に伴う働き方の変化
――――時代の変化に合わせて、私たちの働き方も変化してきました。先生は今の働き方についてどう考えていますか?キャッチアップ型の経済では、ある意味、多くの企業の成長が約束されていたため、従業員の終身雇用が現実的でした。よほどのことがない限り定年退職まで雇用が約束されているから、人生設計もある程度立てやすかったでしょう。
しかし、今日ではキャッチアップ段階を終え、ウィナーピッキングという特徴を持つ経済へと移行しています。どの企業が大きく成長するか、確かなことは誰にもわかりません。世間で「勝ち組」と捉えられている企業に勤める人のなかには、「自分はこれから伸びる企業を見抜いて、新卒の段階で就職した」と考えている人もいると思いますが、それはあくまで結果論です。ボタンの掛け違い1つで、「負け組」と捉えられる企業になっていたかもしれません。ひょっとしたら、倒産していたり、他者に買収されたりしていた可能性もあるでしょう。
そう考えると、自分自身のキャリアや人生設計に応じて転職するのは、なんら不思議なことではなく、むしろ当たり前だと思います。
そうしたことが起こり得ると想定しておくのが当然の世の中になったということでしょう。
――――働き方の変化に合わせて、時間に対する考え方も変わっていますよね。
いわゆる「Z世代」と言われる人たちは、自分の時間を大切にすると言われていますが、ここまでの話を踏まえたら当然ですよね。
これからの世の中がどうなるかわからないから、将来のために自分の時間を作りたいのは、過去から現在までの経済の流れを踏まえると納得いただけるでしょう。
自分自身への投資は手間や体力も必要なので、何かしらのしがらみに囚われず、自分の時間を守ることは、とても大事なことだと思います。
これから私たち個人に求められるもの
変化が激しくなる時代、最も有効な投資先とは?
――――時代が変化したからこそ、求められるものも変わると思います。おっしゃる通り、「ウィナーピッキング型」の経済だからこそ、自分は何に時間を使うかが重要です。スキルを身につけるのか、資産運用を始めるのか、さまざまな選択肢があるでしょう。
ここで重要なのは、「異時点間」の観点から考えることです。異時点間とは、文字通り異なる時点の間を指します。この異時点間での資金の配分は、金融の最も基本的な役割の1つです。
投資で考えるとわかりやすいでしょう。例えば、投資信託を30年間運用する場合、30年後の自分に今のお金を渡していると言えます。
逆に、将来のお金を今使うことも可能です。貸与型の奨学金で大学に進学したり投資家から資金を借りて起業したりするのは、将来の自分がそれを返済することになりますので、将来の自分からお金を受け取っていることになります。これが借金の本質的な考え方となります。
つまり投資とは、異なる時点の自分とお金のやり取りをしているのです。
「借金をする」というと、どうしても他者から借りるという発想になるわけですが、その先には将来の自分がいるわけです。いかなる場合にも、この「異なる時点の自分と」という視点は決して忘れてはならない点だと思います。
――――それを踏まえて、先生にとっておすすめの投資先は何でしょうか?
将来、何が起こるかわからないので、一般的な投資だと必ず何かしらのリスクは伴います。
銀行預金だと銀行の倒産、金融商品だったら価格変動のリスクがありますよね。タンス預金しておいても盗まれてしまうかもしれません。幸い窃盗被害や銀行の倒産がなかったとしても、インフレが起こればタンス預金や銀行預金の実質的な価値は減少します。インフレを恐れて不動産に投資したとしても、土地の価格が将来どうなるかは不確実で、下落することもあり得ます。
いずれの選択肢にせよ、あらゆる状況に対応できるとは言い切れません。だから私たちは、自分自身のお金を何に投じるか真剣に考えるわけですよね。
では何に投資したら、あらゆる時代の変化に対応できるか。それは人的資本、すなわち自分自身の能力に投資することしかありません。
どのように時代が変化しても、その変化を的確に認識し、その都度適応できる力を身に付けることで、新しい環境に応じた稼ぎ方をすればよいのです。
資産運用をすることもちろん大事ですし、そこで蓄えた財産がいざという時に自分を助けてくれる、ということもあり得るでしょう。しかし、それだけで不確実性にあふれる将来に十分に備えることは難しいでしょう。やはり最も自分を助けてくれるのは自分の能力なのだと思います。
その際、歴史を学ぶことは、ある意味私たちに勇気を与えてくれると思います。過去に起きた変化に対して、世の中はどう対応したのか知ることで、これからの変化を読み解くヒントが得られるでしょう。
幕末の開国や明治維新にせよ、太平洋戦争や戦後改革にせよ、それにより社会のあり方は大きく変わったわけですが、人々はその変化に対応して、たくましく生き抜いてきました。決して現在だけが特別な状況ということはないと思います。
新しいことを学ぶときのポイント
――――そう考えると、歴史の学び方が大事になってきますよね。おっしゃる通り、歴史に限らず新しいことを学ぶときは、何を基準で学ぶかが大切です。たくさんの時間が残されている若い頃であれば、がむしゃらに学ぶというのもありだと思いますし、その経験自体が人生の糧になり得ると思うのですが、社会人になればなかなかそのような時間はないはずですから。
その道の専門家から学ぶことが効果的ですが、その人が偏った考えを持っていたら、適切に学べない可能性があります。あるいは初めて学ぶからこそ、情報の非対称性も課題となります。そうであるからこそ、自分なりの目利きと申しますか、判断力を養っておくことが望ましいわけですが、そのためには日頃から幅広い意見に触れる機会を持っておくことが重要だと痛感します。年齢を重ねて、仕事でそれなりの責任も負うようになってくると、意識してそのための時間を作らなければならないなと感じています。
私の場合、他の分野で活躍している同世代の話を聞くことが、意外と有意義な学び方だと感じています。
コロナ前くらいの時期に、20数年ぶりに高校の同窓会が開催されたことがありました。私たちの世代は、高校を卒業した時点ではメールも携帯電話もなく、SNSで繋がることもできなかったので、少し大げさですが卒業は今生の別れであってもおかしくないというような感じだったんです。どの同窓会も、高校時代の名簿に記載された実家の電話番号に連絡が来て・・・、という形での開催でした。
当然、ほぼ20年ぶりに再会したら、積もり積もった話をします。当然、各々違う道を進んでいるからさまざまな話が聞けますし、特に自分と違う意見や自分よりも深い考えに触れると、「そういう考え方もあるのか」と、学べることがたくさんあったんです。
影響力のある人の話を聞くのも大切でしょうが、年齢など自分と条件が近い身近な人の話を聞くことからも、自分にとって大きなヒントが得られるように思います。少なくとも自分が学んでいることや考えていることを相対化するうえで効果的だったように感じます。
――――同年齢の人だからこそ、良い影響が受けられるということですね。同じ経験は、私にもあります。経済史に関するお話を聞くつもりでしたが、これからの時代を生き抜くヒントをたくさんいただきました。
今回はインタビューを受けていただき、本当にありがとうございました!
インタビューアー
田中 律帆(Riho Tanaka)
WEBディレクター
2015年3月 西南学院大学 商学部経営学科卒業
一般教育系企業や国立大学勤務を経て、2021年4月 EXIDEAへ入社。現在は特別企画のジャンルでインタビューを担当。投資歴は10年以上で、主な投資先は株式投資・投資信託・ロボアドバイザーなど。
一般教育系企業や国立大学勤務を経て、2021年4月 EXIDEAへ入社。現在は特別企画のジャンルでインタビューを担当。投資歴は10年以上で、主な投資先は株式投資・投資信託・ロボアドバイザーなど。
記事編集:亀井郁人