日本生まれ世界育ちの新しいカルチャー、「BORO」が変える世界
2024.08.19

日本生まれ世界育ちの新しいカルチャー、「BORO」が変える世界


日本の農村で着用されていたツギハギだらけの普段着や作業着「ボロ着物(BORO)が、今、世界を魅了している。

「BORO」は、日本の寒村地区における貧困と闘いながら生きた人々の知恵と勇気の結晶だ。

幾重にも重ねられた継ぎ接ぎの跡には、命をつなぐための必死の祈りが刻まれている。

しかし、BOROは単なる過去の遺物ではない。

「サステナビリティの象徴としてのBORO」という新たな切り口から、新しいカルチャーとして世界各地で生まれ変わっている。

伝統と革新、東洋と西洋、過去と未来。相反するものが交錯し、融合する。

そして今、AIという新たな仲間を得て、BOROは更なる進化を遂げようとしている。

「ボロきれ」の向こうに、私たちは何を見るだろうか。

大阪成蹊大学芸術学部の辰巳清准教授と紐解く、BOROの創造性と持続可能な未来への道筋とは――。

辰巳 清
インタビュイー
辰巳 清氏
大阪成蹊大学 芸術学部
准教授
専門分野:アートプロデュース(芸術実践論)、アートマネジメント(芸術経営学)
受賞学術賞:2022年5月、スウェーデン美術館協会、エキシビジョン・オブ・ザ・イヤー2021、「BORO – The Art of Necessity」、展覧会監修


人々が困難に立ち向かい克服してきた力強さの象徴「BORO」との出会い


大阪成蹊大学 取材写真 ▲「美しいぼろ布展~都築響一が見たBORO~」(アミューズミュージアム)

―――まずは、BOROコレクションを手掛けられている経緯について教えてください。

大学卒業後、私はエンターテインメント企業のアミューズに新卒入社しました。

20代では主にコンサートの演出とプロデュースに携わり、30代になるとそれに加えて演劇やミュージカルの分野にも範囲を広げていったのです。

40代に入ると、会社の新規事業としてアミューズミュージアムという美術館を立ち上げました。この頃から、コンサート、演劇、美術展の演出とプロデュースを横断的に手がけるようになったんです。

―――すごいですね!かなりマルチに活躍されていた印象を受けました。

私のアプローチは、ジャンルの垣根を越えたものでした。
例えば、コンサートの曲順を考える要領で美術展の展示配置を決めるなど、領域を超えたプロデュース手法を実践していました。

この経験を体系化し、メソッドとして確立したいと考え、在職中に東京藝術大学大学院 国際芸術創造研究科 アートプロデュースコースへの通学を始めたのです。

しかし、新型コロナウイルスの流行により状況が一変しました。2019年には建物の老朽化でアミューズミュージアムを一時閉鎖し、新たな場所での再開を計画していましたが、パンデミックの影響で会社の方針が変更になったのです。

そのため、大学教員になり、アートプロデュースの研究と教育に携わりながら、BOROを運用するという現在の道を選択しました。

BOROには、2009年にアミューズミュージアムを始めてから、ずっと携わっています。

―――現在、ロンドン ウィリアム・モリス・ギャラリーで開催中の「Art Without Heroes Mingei」でもBOROは展示されていますが、どのような背景があったのでしょうか?

アミューズミュージアムは2009年、浅草の築45年のビルをリノベーションして開館しました。

しかし、2019年に建物が築55年を迎え、安全面の懸念から一時閉館することになってしまったのです。この閉館のニュースは朝日新聞の一面トップ記事となり、世界中に配信されるという予想外の反響がありました。

閉館発表後、世界中の日本文化研究者や美術館キュレーターから、BOROコレクションの貸し出しと展示監修の依頼が30件ほど一気に舞い込んできました。

私は、それまで手掛けてきた舞台演出の技法を美術展に応用し、角度をつけたスポットライトでの照明や、ホワイトキューブではなく色彩豊かな背景を使用するなど、古いものを現代的な手法で見せる演出をボロの展示に取り入れていました。

その展示手法が話題を呼んだようで、アミューズミュージアムには10年間で多くの国内外の美術館の館長やキュレーターが来館していました。

閉館後、彼らからの依頼で世界各地でのBORO展が実現しました。

2019年には6月にシドニー、7月にメルボルン、8月にキャンベラ、10月から11月にかけて北京、12月から2020年1月までは深圳で展覧会を行いました。そして3月からはニューヨークでのBORO展が開幕しましたが、新型コロナウイルスの影響でロックダウンとなり、わずか10日ほどで中断を余儀なくされてしまったのです。

そのようなコロナ禍でも、特にヨーロッパでは美術館の活動が継続され、2021年5月から2022年1月にはストックホルムのスウェーデン国立美術館、2022年3月から8月まで、同じスウェーデンのバーナム・デザイン・アンド・アート・ミュージアムでBORO展を開催しました。

2023年4月には、世界的に名高いデザインの権威、ロンドンのウィリアム・モリス・ギャラリーから、イングリスビー主席学芸員が日本を訪れました。

イングリスビー学芸員は日本の民芸展の構想を持ち、リサーチのために来日していたのです。

人づてに私に連絡があり、BOROの出品依頼を受けました。実はイングリスビー学芸員は以前アミューズミュージアムを訪れたこともあったそうです。

興味深いのは、イングリスビー学芸員の民芸に対する新しい解釈です。

柳宗悦が提唱した従来の民芸の概念では、名もなき職人たちが作った物に美を見出すというものでした。

そのため、一般家庭の主に女性たちが繕い続けたBOROは、従来は民芸に含まれていなかったのです。

しかし、イングリスビー学芸員は柳の精神を現代に更新すれば、BOROも民芸に含まれるのではないかと提案しました。

イングリスビー学芸員の解釈に私は大変興味を覚え、この対話の結果、ウィリアム・モリス・ギャラリーでのBOROの展示が実現しました。2024年3月から9月までの長期にわたって作品を貸し出しています。

BOROは、生と死のサイクルの象徴


大阪成蹊大学 取材用写真
―――今回の展示で提供している作品へのコンセプトや思い入れを教えてください。

今回の展示では、女性の仕事着1点と「ボドコ」と呼ばれる敷布1点を貸し出しています。
これらが使われていた青森のような寒冷地では、布は非常に貴重でした。雪の中では3時間の寒さで命を落とす可能性があるため、衣服は食べ物以上に重要だったのです。

仕事着はツギハギを繰り返されて、中には4代、5代にわたって使用されるものもありました。今回、お貸出しした仕事着は、村に赤ん坊が生まれると着せて、この着物のように丈夫に長生きしてくれと祈りを込めていた、との聞き取り結果が残っています。

一方、ボドコは日常的に敷布団として使用されるだけでなく、出産時には赤ん坊を取り上げる際にも使用されていました。

古布が出産に使われる事例は世界中にありますが、多くの場合は使用後に捨てられます。 しかし、120年ほど前の青森では、貧しさゆえに胎盤や血で汚れたこれらの布も洗って再利用せざるを得ませんでした。何代にも渡って使い続けられたボドコは、何百人もの赤ん坊の生を取り上げてきたわけです。

私はBOROを、そのつぎはぎデザインの美しさだけでなく、人間の生と死のサイクルを象徴するものとして捉えています。 天然資源に乏しく自然災害の多い日本において、人々が困難に立ち向かい克服してきた力強さの象徴なのです。

このコンセプトをイングリスビー学芸員と共有し、意気投合しました。

そして、BOROを民芸として扱うという大胆な解釈ですが、この新しい視点での展覧会に協力することにしました。

―――イギリスでは3月からすでにウイリアム・モリス・ギャラリーでの展覧会が始まっているようですが、反響はいかがですか?

大阪成蹊大学 取材用写真
展覧会はオープンしてから非常に好評を博しているようです。
来場者数が多く、ジャーナリストの関心も高く、多くの記事を主催者から送ってもらっています。

しかし、私自身は3月末に新学期の準備があったため、まだ展覧会を訪れていません。

これから、展覧会の最終日に合わせて開催されるシンポジウムやトークショー、そしてクロージングパーティーに参加する予定です。

キーワードは、「もったいない」!?世界に通用する言葉「BORO」


大阪成蹊大学 取材用写真 ▲「BORO - The Art of Necessity」(スウェーデン国立東洋美術館)

―――展示されている作品は、人間の生命の根源や、「サステナビリティ」という言葉が生まれる以前からの深い意味を持っているように感じられます。現代のサステナビリティの概念と、BOROのコンセプトとの間には何か関連性があるのでしょうか?

2009年にアミューズミュージアムをオープンした際、私は「もったいない」をコンセプトに掲げました。

当時、ワンガリ・マータイ氏が国連で「もったいない」を世界語にしようと提唱していたこともあり、時宜を得たものでした。「もったいない」は元々仏教用語で、物の価値が十分に活かされていない状態を指します。

しかし、2019年の閉館発表後、北京国立ファッション美術館の館長との対話を通じて、新たな視点が生まれました。

北京オリンピック、東京2020オリンピック・パラリンピックという文脈の中で、共通するレガシーとしての「サステナビリティ」が浮かび上がったのです。当時の中国では、環境問題への意識が高まっており、これは私にとって新鮮な発見でした。

この経験を踏まえ、BOROを世界に発信していく上で、「サステナビリティの象徴としてのBORO」という新たな切り口を見出しました。様々な研究者とのコミュニケーションを通じて、更にコンセプトの設計を進めました。

―――辰巳准教授が考えるBOROの未来像について教えてください。

大阪成蹊大学 取材用写真 ▲「BORO - The Art of Necessity」(スウェーデン国立東洋美術館)

現在ロンドンで開催している民芸展、Art Without Heros MIngeiを含め、私はBOROを貸し出す際、単に古いBOROを展示するだけでなく、展示地域の現代のアーティストがBOROからインスピレーションを受けた作品も同時に展示するようにお願いしています。
そうすることでBOROの持つ精神を現代の、その地域に更新することを狙いとしています。

この試みは2014年*、十和田市現代美術館でのBORO展から始めました。

日本の現代アートの作家たちがBOROからインスパイアされた作品を制作し、展示に参加してくれました。

2016年*には、神戸ファッション美術館で現代のファッションデザイナー4ブランドがBOROにインスピレーションを得た作品が、BOROと一緒に展示されました。

この展覧会では、4ブランドの作品を先の4つの展示室に配置し、それらに影響を与えたオリジナルのBOROを、一番奥の大きな展示室に配置するという展示構成としました。

オーストラリアの3都市での展示では、キルトアーティストたちの現代作品が展示されました。北京、深圳、ニューヨーク、ストックホルム、バーナム、ロンドン、みな同じように現代アートの作家たちの作品がBOROと一緒に展示されてきました。

私の役割は、BOROの持つメッセージを継承しつつ、現代の作家たちにどのような影響を与えられるかを考え、そのような展覧会を企画・監修することだと考えています。

このアプローチにより、鑑賞者の想像力を刺激し、新たな知識や理解を生み出すきっかけを提供していきたいです。

*1) 十和田市現代美術館にて アミューズミュージアムが企画協力した展覧会 「田中忠三郎が伝える精神」
*2) 神戸ファッション美術館 BORO(ぼろ)の美学 ―野良着と現代ファッション


ルイ・ヴィトン、コム・デ・ギャルソンも魅了するBORO


大阪成蹊大学 取材用写真
―――BORO展を訪れた方々や、BOROからインスピレーションを受けて作品を制作したアーティストやデザイナーの方々から、印象に残る言葉やエピソードはありますか?

私は作家に制作意図を直接尋ねることはしません。作品自体が全てを語ると考えているからです。

各地のキュレーターや美術館長との綿密な打ち合わせを通じて、私の意図を彼らに十分に伝え、それを踏まえて適切なアーティストの選定と作品のディレクションを各地のキュレーターや美術館長に任せています。委ねることで、新たなBOROの解釈が生まれていきます。

2009年にアミューズミュージアムをオープンした際、「ボロ」を「BORO」と表記し、「BOROは世界に通用する言葉になりつつあります」というキャプションを付けました。当時はある程度のハッタリでしたが、10年後にはそれが現実となりました。

2013年、ルイ・ヴィトンがBOROをテーマにしたコレクションを発表したことが、当時の「ハッタリ」が現実になったことを認識した始まりでした。

2014年には、アルチュザラというブランドがBOROをテーマにしたコレクションでアメリカファッション協議会が主催するCFDAファッションアワードの大賞を受賞しました。

2015年*には、コム・デ・ギャルソン オムのジュンヤ・ワタナベもBOROをテーマにしたコレクションを発表しています。

興味深いのは、ルイ・ヴィトンの当時のデザイナー、キム・ジョーンズがアミューズミュージアムを訪れたことがきっかけでBOROをテーマにしたという事実です。 これは後にファッション業界誌WWDのインタビューで知りました。

現在では、BOROに影響を受けた作品を制作しているアーティストやファッションブランドは、私が把握しているだけでも世界中に100以上存在しています。

*Junya Watanabe Spring 2015 Menswear

日本発の新しいカルチャー。再解釈され、更新されるスピリット


大阪成蹊大学 取材用写真 ▲「BORO - The Art of Necessity」(スウェーデン国立東洋美術館)

―――近年、日本の古着や民芸品、特にBOROなどの伝統的な衣服に対する海外からの注目が高まり、古い衣服や布製品が持つ力や魂のようなものが、現代の人々の心に強く響いているように思います。日本の古着やBOROが持つ魅力が、世界中の人々の心に響く理由は何だと考えますか?

世界中の研究者から、なぜ日本にだけこれほど美しいBOROが存在するのか、と質問を受けます。私はよく海外での講演で次のように説明しています。

江戸時代、日本は鎖国政策を取り、同時に参勤交代制度を実施しました。この時代、江戸は世界最大の都市となり、人口は120万人程度でした。

同じ頃、北京は100万人、ロンドンは55万人、パリが50万人程度で、ニューヨークはまだ開拓初期でした。

江戸幕府は、この大都市を維持するために徹底的なエコシステムを構築しました。ゴミ問題に対処するため、分別収集が行われ、市民が勝手にゴミを埋めたり燃やしたりすることを禁じる法律が制定されたのです。

燃えるものは燃料として使用され、その他のものは東京湾の埋め立てに利用されました。また、裁縫技術も発展し、庶民の女性の髪の毛は上流階級の儀式用のカツラ製作に用いられました。

さらに、糞尿も肥料として再利用され、特に富裕層の糞尿は高値で取引されていたのです。

この徹底したエコ社会の中で、新品の着物を仕立てられるのは富裕層だけで、多くの場合、庶民は流通していた古着を着用していました。江戸で値段がつかなくなるほど着尽くされた古着は農村部へ流れ、最終的には当時の日本の最北端、世界的な豪雪地帯の青森に到達したのです。

青森では、綿花栽培が困難だったため(栽培北限は福島付近)、農民たちは麻を栽培し、自分たちで糸を紡ぎ、布を織っていました。

そして、江戸や関西などから送られてきた使い古された木綿の布と、自分たちの麻布を組み合わせて衣服を作り続けたのです。

これらの麻でできたBOROのコレクションは、青森の民俗学者、田中忠三郎によって収集されました。

アミューズは忠三郎と文化人マネジメント契約を結んで、このコレクションを運用し、彼の死後、遺族からコレクションを買い取りました。現在は私がこのコレクションの運用と管理を行っています。

日本にのみ存在する美しいBOROの背景には、先ほど説明した江戸時代のエコシステムがあります。 そして、現在私が運用しているBOROは、その時代から継承されてきたものです。

忠三郎が果たした役割はたいへん大きなものだったと考えています。

オートクチュールやプレタポルテといった、高級な着物や貴族の衣装は保存されますが、現代でいうリアルクローズ、一般の人々が日常生活で着ていた衣服、特にボロボロになったツギハギの野良着は、民俗資料館でもあまり扱われていません。

忠三郎がこれらのワークウェアを収集し保存してくれたおかげで、私たちは今日、これらの貴重な資料を目にすることができるのです。 彼の先見の明と収集への情熱があったからこそ、私が「サステナビリティの象徴としてのBORO」というコンセプトを打ち立てることができたのです。

―――国際的にBOROが評価される背景には何があると思いますか?

青森の襤褸布の価値が認められたというよりも、世界的にサスティナビリティへの関心が高まる中で、BOROがその象徴として認められたと考えています。

来年のスペインのバルセロナのアートフェスから招待出展の誘いも受けています。

私は2009年にボロをBOROと表記したときに、寿司がアルファベットのSUSHIとして、世界に広まったように、BOROも世界的に認知されるようになるといいなあと願っていました。今、BOROはSUSHIのように世界各地で受容されています。

時に解釈に誤解が生じることもありますが、それも受け手側の創造性として許容しています。

例えば、オーストラリアでは、「BORO制作キット」が一般の手芸店で販売されていました。このキットには藍染めのハギレだけでなく、カラフルな和柄の布も含まれていました。近年では赤やピンクの洋柄のハギレもBOROと呼ばれているそうです。

オーストラリアのキルト作家たちは、これらオーストラリア人にとってのBOROを使って現代的な解釈の作品を制作しています。

各国での展示でも様々な解釈が見られ、ストックホルムではテクノアーティストがBOROからインスパイアされた音楽を制作し、展示室内で流していました。

中国の深圳では、詩人がBOROにインスピレーションを受けた詩の朗読イベントを開催し、BOROにプロジェクションマッピングを施すなどの試みもありました。

スウェーデンのストックホルムとバーナムでの展覧会では、新しい試みを導入しました。ワークショップスペースを設け、そこで来場者は小さな布をツギハギし、それらを連作としてどんどん大きくしていくという参加型の展示を行いました。これは、アーティストだけでなく、来場者自身の解釈や創造性を重視する私の意図を反映したものです。

特にバーナム・デザイン&アート・ミュージアムでの経験は印象的でした。
館長は元ニューヨーク近代美術館(MoMA)のキュレーターで、子育ての環境を考慮してスウェーデンに戻ってきた方でした。彼女は「我々はコロナ禍でも一日も閉館しなかった」と語りました。
これは、ヨーロッパの人々の文化に対する姿勢の違いを強く感じさせるものでした。彼らにとって美術館は、フランス革命以降、かつての貴族の独占物だった芸術や知識を民衆に開放する場所という歴史的意義を持っています。
館長は、美術館が単なる展覧会の見る場ではなく、地域の人々のためのワークショップや子供たちの教育施設としての役割も果たしているため、閉館することはできなかったと説明しました。
この考え方は、文化施設の社会的責任と重要性を強く示すものであり、非常に印象的でした。

様々な経験を通じて、BORO展は日本の伝統的な布を紹介するだけでなく、文化の共有、教育、そして創造性の促進といった幅広い価値を持つことができていると実感しました。それぞれの地域や文化の中で、BOROが新たな解釈と意義を見出していく過程は、非常に興味深く、また励みになるものです。
BOROは多様な表現方法を通じて現代に再解釈され、そのスピリットが更新され続けているのです。
一過性の流行ではなく、今まさに、日本発の新しい文化が誕生しているという手応えを感じています。

伝統的な素材×新しい技術で、芸術表現の可能性が爆発する!


大阪成蹊大学 取材用写真
―――文化の広がりと根付きにおいて、受け手の自由な解釈に委ねてきたことが成功の秘訣なのでしょうか?今後の展覧会やプロジェクトにおいて挑戦していきたいことを教えてください。

アミューズミュージアムでの10年間のBORO展示が、私の作品と展示手法に対する理解の基盤を築きました。
この経験により、作品の解釈を観覧者に委ねることに躊躇がなくなりました。

通常、作品の貸し出しでは展示方法に厳格な指定がある場合が多いです。しかし私は作品の安全性が担保されれば、それほど細かい注文をしません。
展示手法のセオリーが定まっている絵画や彫刻と違い、布の展示には独特の難しさがあります。シワ一つで表情が変わりますし、特にBOROは作家が意図を持って作った作品とは異なるため、展示にあたっては一定の演出が必要です。
そのため、キュレーターや館長との信頼関係の構築が重要で、綿密なコミュニケーションを心がけています。

この信頼関係を基に、展示をより委ねるようになってきました。例えば、スウェーデンやロンドンの展示では、設営に立ち会わずリモートでの確認で済ませるようになりました。

2019年3月にアミューズミュージアムが閉館して以来、日本国内での大規模な展示は実現していません。

2020年に国立歴史民俗博物館で小規模な展示を行いましたが、適切なタイミングで日本国内での展覧会を行いたいと考えています。

しかし、自身でミュージアムを再開する意向は今のところありません。浅草のアミューズミュージアムで10年間、様々なテーマで企画展を行ってきたため、自分の解釈による展示はやり尽くした感があります。

日本で展覧会を行う際も、自分ではないキュレーターによる新しいBOROの解釈を通じて作品の解釈を重層化していきたいと考えています。

この考えの背景には、東京藝術大学大学院時代の恩師、長谷川祐子先生(現金沢21世紀美術館館長)の言葉があります。

「誤解釈=ミス・インタープリテーションを恐れるな」という先生の教えは、新しい解釈の可能性を示唆しています。
他者に「解釈=インタープリテーション」を委ねることで、作品に「新たな解釈=ニュー・インタープリテーション」が生まれる可能性があるのです。海外展の開始と同時期に頂いた言葉で、深く心に残っています。

―――最後に、読者の方にメッセージをお願いします!

アートの概念は時代とともに変化してきました。
アート及びその訳語である芸は、元々は人が修練して身につけた幅広い技能を指していました。

レオナルドダヴィンチはルネサンス期を代表する芸術家ですが、数学者で物理学者で天文学者で医者でもありました。かつてはこれらすべてがアート、修練して人が身につけた技能だとされていました。ところが、18世紀末から19世紀にかけての産業革命の時代以降、機械工業が飛躍的に発展したことによって、科学技術はアート、つまり人間が修練して身につけた技能を指す言葉ではなくなったのです。科学は人間じゃなくて機械がやるからアートじゃないってことに言葉の意味が変化したのです。ですから19世紀、日本だと明治時代ころから、芸、アートは人が身につけた技能の中で、とりわけ音楽や演劇や美術、書道などだけを指す言葉として扱われるように変化したわけです。

今から200年前の最新の芸術は、音楽だと今でいうクラシック、演劇は今でいう伝統芸能、美術は絵画や彫刻しかありませんでした。だから未だに芸術に関して、それら明治時代の感覚を引きずってる人もいるわけです。

ところが、第2次大戦後、ヨーロッパ、パリからアメリカ、ニューヨークに芸術文化の中心が移った1950年代ごろからアメリカは、自分たちならでは芸術として、写真や映像、映画、デザイン、イラスト、ファッションなどをアートとして扱うようになりました。そのことから世界中がそれらをアートして認め、更に冷戦が終わって、世界各国の多様な文化が認められるようになっていった1990年頃から、日本のマンガやアニメ、ゲームなども世界的にアートとして捉えられるようになりました。
芸術のメディアは爆発的に拡大したのです。同時に、多様な背景を持つアーティストが活躍し始め、芸術の表現方法も多様化しました。近年では、チームラボやライゾマティクスのようなテクノロジーを駆使したアーティストも登場し、科学技術と芸術の融合が進んでいます。科学技術もまた産業革命以前のようにアートとして扱われるようになるのかも知れません。

ハイテク都市である深圳でのBORO展では展示してあるBOROにプロジェクションマッピングを施すなど、古い作品と最新技術を組み合わせた新しい表現が行われました。今後、AIを含む新しいアプローチによって、より革新的で魅力的な展覧会や芸術作品が生まれることを楽しみにしています。

新井那知
ライター
So-gúd編集部
新井 那知
埼玉県・熊谷市出身。渋谷の某ITベンチャーに就職後、2016年にフリーランスライターとして独立。独立後は、アパレル、音楽媒体、求人媒体、専門誌での取材やコラム作成を担当する。海外で実績を積むために訪れたニューヨークで、なぜかカレー屋を開店することに—-帰国後は、クライアントワークを通してライターとして日々取材や編集、執筆を担当する。料理と犬、最近目覚めたカポエイラが好き(足技の特訓中)。
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