地球社会の正義を求めて:伊藤恭彦教授の挑戦
2024.01.17

地球社会の正義を求めて:伊藤恭彦教授の挑戦


古くから人類は、「正義」という概念を探求しており、古代ギリシャの哲学者アリストテレスが現代につながる正義概念の原型を提示した。しかし未だに人類は、正義における一つの正解には辿り着いていない。ましてや正義という概念は、時間の経過と共に定義も変化するものだ。

また18世紀・イギリスの産業革命やフランスのフランス革命がおこると、「社会(Society)」という概念が誕生した。この頃に誕生したのが、「社会正義」という概念で、社会の構成員が持つべき考え・心のあり方や守るべきルールとして提唱されたのだ。

そして社会正義という概念は、社会が複雑化するにつれて多種多様な正義が誕生した。現代では抽象的な正義規範を具体的な社会問題解決のための指針としようとする動向がある。貧困問題解決のための正義もその一つだ。

そんな貧困解決の指針として社会正義の研究をするのが名古屋市立大学・伊藤恭彦教授だ。伊藤氏は、社会正義の中でも世界中の貧困を解消する富と財を移転する政策の基礎となる正義規範(グローバルな正義)を研究テーマとしている。今回の伊藤氏への取材を通して見えてきたことは、グローバル・ガバナンスと社会正義の未来、そして人間の尊厳の尊さだった。

伊藤 恭彦
インタビュイー
伊藤 恭彦氏
名古屋市立大学 大学院人間文化研究科
教授
■専門分野
政治学、政治哲学
現代正義論を公共政策(グローバルな財の移転、税制改革など)に応用する研究

■著書 『貧困の放置は罪なのか』(人文書院)
『さもしい人間』(新潮新書)
『タックス・ジャスティス』(風行社)


世界的な貧困を解消するための社会正義の研究に携わる名古屋市立大学・伊藤氏。


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―――伊藤先生が研究されている領域について教えてください。

専門は、現代政治哲学で主に正義論を研究しています。その中で貧困問題を解決するための指針として社会正義の研究をおこなっているんです。この種の社会正義の実現にはいくつかの方法があります。

解決方法の一つとして、富や財を移転することで貧困を解消する方法が存在します。私は、この富や財の移転について研究を行い、具体的な手法の1つとして税を位置づけ、税と正義についても研究を進めているのです。

また私は社会正義が実現できている状態とは、全ての人間が人間として尊重され、尊厳が守られていることを意味すると思います。正義は古代ローマの時代に「各人に彼のものを与えんとする恒常的意思」と示されて以来、抽象的な定義が現代まで続いています。現代においては、グローバル化した市場社会のなかで『誰に何を何のために分配するのか』を具体化することが一番重要だと考えています。一つの国の中だけで正義を考え、その実現を目指してきた時代から、地球規模で正義を考え、その実現のための挑戦が始まったと私は考えています。

富裕層が持つ富や財を適切に分配することが貧困問題の解決に役立つ。


SDGsの指標 引用:一般社団法人日本SDGs協会

―――SDGsに「貧困をなくす」という目標がありますが、今求められている行動とはどのようなものだと考えられますか?

国際基準では、「極度に貧しい」暮らしをする人を1.90ドル/日未満で生活をおくる人として定義しています。

この極度な貧困状態にある人は、ユニセフと世界銀行の分析によると世界で約7億人にのぼります。貧困状態にある人たちは、満足な食事ができず、十分な栄養を摂取できないため、病気が蔓延している場所があるのが現実です。また貧困状態の地域では、限られた食料を奪い合うため暴力行為も発生しています。

ただ世界規模で考えてみると地球上では、現在の人口を大きく上回る100億人から120億人分の食料が生産できています。

このことは暴力で食料を奪い合う地域がある一方で、大量に食料を余らせて廃棄している地域があることを示唆しているのです。食料分配を正しい基準で実施できれば、解決できるのではないでしょうか。

また二酸化炭素の排出による地球温暖化は、異常気象を引き起こしていますよね。ですが二酸化炭素の排出量は、途上国よりも先進国が高いのが現状です。つまり私たち先進国が排出した二酸化炭素により、作物が実らず食べる物がなくなったり、住むところを追われたりしてしまう途上国の人たちがいます。

二酸化炭素を排出して環境に負荷をかけている先進国が食料を余らせ、二酸化炭素を輩出していない途上国が貧困に苦しんでいるのは、不平等ですよね。

そのため国家間の不平等を無くしていくには、貧困国の成長も重要な要素ですが、富裕層が持っている富や財を適切に分配することが重要だと考えています。富の分配に関しては日本の取り組みは弱いと感じており、これからの課題です。

出典:朝日新聞SDGs ACTION!『SDGs目標1「貧困をなくそう」を解説 今、私たちにできることは

―――主観的な考察になるかもしれませんが、日本におけるSDGsの取り組みは環境問題に偏りがちなイメージがあるのですが、日本と世界で異なる考え方があるのでしょうか?

日本人と世界の考え方の差異は感じていません。ですが私は日本国内の貧困について、自己責任論を口にする人が多い印象を持っています。例えば、生活保護を受けている世帯に対して厳しい視線が向けられ、生活保護対象者の方が後ろめたい気持ちを抱いてしまうケースもあります。

ほかにも社会の仕組みの課題として、失敗に対するリスクが高い点があると考えています。自分の意志とは関係なく、災害や病気などで誰もが貧困に陥るし、苦境に転落することも考えられます。そのため、誰もが貧困になるリスクを秘めている現状を自覚することが必要です。

グローバル・ガバナンスと社会正義の相乗効果で途上国の医療を改善。


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―――社会正義に対してグローバル・ガバナンスはどのような影響を及ぼすとお考えですか。

社会正義とグローバル・ガバナンスが、上手くかみ合えば貧困の課題に対する相乗効果が期待できます。

例えばフランスや韓国などで導入されている「航空券連帯税」が代表的なものでしょう。フランスでは国際線航空券に一定額を上乗せして徴収し、UNITAIDという国際機関を通じて、徴収した資金を使い感染症で苦しむ途上国の人々でも高品質の医薬品・診断技術を利用できるようにしています。

航空券連帯税の例は、途上国の医療格差という問題解決のために作られた社会正義の実例の一つです。

航空券連帯税は導入国政府、国際機関、民間企業が協力して特定の地球規模問題解決のための枠組みをつくるグローバル・ガバナンスの典型事例です。グローバル・ガバナンスはグローバルな社会正義を実現する効果的な枠組みだと言えます。

寄付だけでは根本的な解決にはつながらない。


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―――社会正義の実現のために、我々先進国の人間はどのように国際問題と向き合うべきなのでしょうか。

世界の貧困問題を考えるとき、私は従来の私たちの常識を変えるべきだと思います。多くの人たちは世界の貧困問題に心を痛め、いろいろな寄付活動を行っています。これはとても崇高で大切な行いだと思います。そして集まった寄附が多くの地域で貧困対策に使われていることも事実です。しかしながら、寄附は「行えば賞賛されるが、行わなくても非難されない」行為です。

世界の貧困問題に対する私たちの義務をこのように理解していいのでしょうか。私は世界の貧困問題は、富裕国がグローバルな世界市場を通して貧困国の人びとを傷つけていることから生じていると考えるべきだと思います。搾取、児童虐待労働などを通して豊かな国向けの製品が作られていることがその例です。つまり世界の貧困問題はグローバル市場が作り上げた構造の中で起こっているのです。

私たちが他者に対して負う最も重い義務は「他者を傷つけないこと」です。私たちはグローバル市場から恩恵を受けることで間接的に貧困国の人びとを傷つけているのです。人を傷つけることをやめることは、「やってもやらなくてもよい義務」ではなく、「やらなくてはならない義務」なのです。正義とは「やらなくてはならない義務」を意味しています。

貧困国に対する寄附はとても大切ですが、貧困問題解決のためには貧困者を傷つけるグローバル市場の改革が必要です。これが貧困対策の指針としての正義の根幹におかれる考え方なのです。先に紹介した「航空券連帯税」グローバルな正義の実践の一つです。

―――確かに日本では知らずに紛争地域の商品を購入したり、使用していることがありますね。一人ひとりの人間の意識を変えるためには、消費行動を変えていくことも有効なのでしょうか。

コーヒー豆の売買でフェアトレードが導入されていますが、フェアトレードが導入されていない商品があったり、導入されていても十分に運用されていない商品があったりします。

ダイヤモンドの取引では紛争国で採取されたものではないことを証明する「キンバリープロセス」が始まっていますが、まだ十分とは言えないのが現状だと思います。

―――レアアースはスマホに使用されているので、ここまで生活に根付いているものを手放すのはハードルが高い印象を受けます…。

おっしゃる通り、確かに難しい問題です。先進国の子どもたちがゲーム機でバーチャルで戦争を行っているが、その裏にはリアルな戦争が存在しているという人もいます。ゲーム機には紛争地域で算出されたレアアースが使われていることのたとえです。戦争という犠牲の上に、我々のスマホが存在しているというのが現実です。

この問題に対して10年〜15年前であれば、グローバル・ガバナンスで取り組めるだろうとの目論みがありましたが、近年のウクライナや中東が戦争状態に入り取り組み自体も難しくなりました。しかし、私たちの便利で快適な生活が貧困国の悲惨さとつながっているということは忘れてはならないと思います。

―――明確な正解が無いなかで、現状を知り、そして思考の幅を広げていくことが重要なのでしょうか。

仰る通りです。社会正義は世界規模の大きなテーマであるため、実現に至るまでには解決しなければならない課題は山積みです。実現までにどの程度の時間がかかってしまうのかと想像すると絶望しそうになります。

戦争や紛争のニュースに触れると、社会正義の実現に対して人類は後退してしまったのではないかと思うほどです。ただ過去を振り返り、100年、200年前に目を向けると人がもっと雑に扱われてしまう時代がありました。

それこそ子どもたちが炭鉱に放り込まれて無理やり働かされたり、簡単に命を奪われたりした時代があったわけです。人間を奴隷にしてきた社会も多数ありました。そのような時代と比べると、私たちは道徳的には進歩してきたといえます。人間はいつか気づくことができるのだという信念をもって取り組むしかないと考えています。

失敗ができる社会にすること。そして豊かさのビジョンをもつことが重要。


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―――貧困問題は先進国に生まれた人の責任とも言えると思うのですが、将来に向けて先進国はどのように旗振りをしていくべきなのでしょうか。

貧困問題の解決のためには、グローバルな制度改革が必要だと考えています。そして、この制度改革は多くの国の関与が必要です。ただ、現状の社会情勢を見ると、自国の利益を優先する傾向があり、足並みが揃うのを待っていては時間がかかるばかりで問題は解決しません。

グローバルな制度改革が実現されるまでは、富裕層の目を貧困問題に向けさせることが必要でしょう。実際、貧困は自己責任だという議論が起こっているアメリカでも、富裕層が貧困問題に取り組むべきだという論調も生まれてきています。実際に寄附をしたり貧困対策のための財団を作ったりしている富裕者もたくさんいますね。

―――日本では物価の上昇もあり貧困化が、進むという考察もありますが、と貧困問題における日本の立ち位置はどのようなものだとお考えですか。

日本は、高度経済成長を通じて国民の大多数が自らを「中流階級」であると認識した「一億総中流社会」という比較的平等な社会を作ることができたと考えています。

戦後の経済成長を遂げた結果、大きな格差を生み出してしまったという国が存在する一方で、日本は格差を広げることなく経済成長ができました。これは政治の力で都会がもたらした資産を地方に公共事業などで分配できていたからです。

ただ経済成長が停滞すると、政治力による富の分配が機能しなくなりました。ヨーロッパのように、税金や社会保障費で公平な社会福祉を提供するといった社会制度を構築できていなかったんです。政治力に頼っていた日本は、結果的に貧困層に手を差し伸べる制度設計が不十分となり、格差が広がってしまったと考えています。

これから世界はもちろん、日本の社会制度を整えていくのは困難な道筋です。その道筋のなかで、分断されつつある人と人との絆を作り直す社会制度が問われていると考えます。具体的には、税金を活用した互助的な仕組みをもっと強化する必要があると思います。

―――今後の日本が貧困問題を解決するにあたって、目指す社会はどのようなものでしょうか?

まずは失敗ができる社会にすることです。北欧の大きな会社の社長が、自分の国は労働者の首が一番切りやすい国であると講演で述べていました。それは現実的に企業活動についていけなくなった人に退職してもらい、再教育したのち再就職する仕組みがあるからです。その仕組みは社会全体で支えられています。再教育の仕組みは日本ではまだまだ少ないと感じています。

また日本にはどういう社会にしていきたいのか、どういう豊かさを実現したいのかという具体的なビジョンがありません。

日本の未来は、経済成長を続けないと無いという主張をする人もいます。ですが成長を求めずに定常型社会でも豊かになる方法がないか、日本の豊かさについて今一度問い直す必要があると思います。

何のための経済成長なのか、従来の日本における経済的な豊かさとは違う、社会を目指しても良いのではないでしょうか?

全ての人間に尊厳のある生活を保障できる社会の実現に向けて。


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―――ありがとうございます。それでは読者に対してメッセージをいただけますか。

私は、いわゆるZ世代と呼ばれる若者たちに期待をしています。彼らは総じて所有意識が低く、これまでの世代とは異なる価値観を持っています。

例えば、昭和世代の人間は大学を卒業すれば車を買い、いつかは大きな車に乗るぞというのが夢でした。一方でZ世代は夢を理由に車を買うことはなく、車や住居をシェアするケースもあります。

また私はLPレコードが好きで、今はCDで音楽を楽しんでいます。私が学生たちにLPやCD収集について話すと生徒からは、CDを持つのは場所を取るだけで邪魔な気がすると言われているんです。このような背景から彼らは、所有では得られない豊かさを感じている気がしています。

―――確かに物質的な豊かさを求める人が、増えているように思います。自分にとっての最適解を考える時代になってきているような気もしますね。

だからこそ、人の尊厳が破壊されたり、十分な食事が摂れなかったりする社会は変えていかないといけません。

私は一貫して正義を考えるときに、全ての人間に尊厳のある生活を保障することを芯においているんです。ただ尊厳のある生活は、人によって解釈が異なります。全ての人に適した合意形成は難しいので、逆の視点で考えなければなりません。

つまり、人の尊厳を破壊してしまう社会とは何かという視点です。人の尊厳を破壊すること、つまり不正義に対しての合意はつくりやすいと思います。貧困は尊厳破壊の最たるものでしょう。もし人の尊厳を破壊してしまうような社会システムがあれば、改善していかなければなりません。

もちろん尊厳破壊は貧困問題に限りません。別の問題で考えてみましょう。少子化の問題を例にすると、給付金や支援金としてお金を配付しても若いカップルが子どもを作るかというとそうはいきません。

そもそも若いカップルは、将来に希望が持てない社会に子どもを生むことに疑問を抱いているように感じます。

気候変動による環境負荷、不安定な社会情勢、いじめ問題、貧困の格差問題が垣間見える社会に子どもを送り出せるかと言われると難しいですよね…尊厳が破壊されるかもしれない社会では、希望を持って子どもを育てることはできません。少子化対策に本気で取り組むためには子どもから大人までが尊厳をもって生き続ける社会をつくらねばなりません。

私は金銭的な支援が無駄だとは思いませんし、必要な側面ももちろんあると思います。ですが人の尊厳が、保障され希望を持って人生を生きられる社会に変えることが最も重要だと考えます。

正義の学術的な探究は、そんな社会づくりへの挑戦とつながっているのです。

新井那知
ライター
So-gúd編集部
新井 那知
埼玉県・熊谷市出身。渋谷の某ITベンチャーに就職後、2016年にフリーランスライターとして独立。独立後は、アパレル、音楽媒体、求人媒体、専門誌での取材やコラム作成を担当する。海外で実績を積むために訪れたニューヨークで、なぜかカレー屋を開店することに—-帰国後は、クライアントワークを通してライターとして日々取材や編集、執筆を担当する。料理と犬、最近目覚めたカポエイラが好き(足技の特訓中)。
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