未来の通信を盗聴から守る:量子暗号の可能性と挑戦
2024.02.11

未来の通信を盗聴から守る:量子暗号の可能性と挑戦


人類最古の暗号はいつの時代のものかご存知だろうか。ビロニアの時代から使われていたと言われている。軍事や政治の場面で主に使用されていた暗号も、インターネットの普及に伴い利用用途が広がっている。

暗号の歴史は暗号開発とその暗号を解読する技術とのいたちごっこを繰り返しているが、量子暗号の登場によりその争いに終止符が打たれようとしている。

そんな量子暗号の新方式の提案や、実際の装置を使った安全性について研究をされているのが富山大学・学術研究部工学系の玉木教授だ。今回は人類の悲願でもある量子暗号についてお話を伺った。

玉木 潔
インタビュイー
玉木 潔氏
富山大学 学術研究部工学系 教授
東京工業大学理学部 物理学科卒業、東京工業大学大学院理工学研究科 物性物理学専攻修了、総合研究大学大学院先導科学研究科 光科学専攻博士課程修了、ペリメータ理論物理学研究所 長期滞在研究員、トロント大学電気・計算工学科 博士研究員、日本電信電話株式会社 物性科学基礎研究所、富山大学大学院理工学研究部教授、現在に至る

何万年後の未来の技術でも破られない量子暗号を研究する富山大学・玉木氏


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―――教授の研究概要について教えてください。

私は、量子通信と呼ばれる量子力学の原理を通信に利用する新世代の通信を研究していて、特に量子暗号の安全性解析を主に研究しています。

具体的には量子暗号の新方式の提案や、まだ安全だと証明されていない方式の証明を行っています。また、量子暗号の多くの方式は雑音などの不完全性が一切ない極めて理想的な装置を使った下では安全であることは証明されているのですが、これでは現実では役に立たないので実際の装置を使った時の安全性についても研究しています。

―――ありがとうございます。量子と量子暗号の違いについても教えてください。

量子とは分子、原子、電子、原子核などのとても小さな粒子を指します。私たちの体も莫大な数の量子によって構成されているのですが、量子自体の性質は普段私たちが目にする大きさの物の性質とは全く異なります。

例えば、一人の人間は一か所にしか存在できないと私たちは思っていますが、一つの量子は複数個所に同時に存在することができます。

また、人から聞いた情報の他の人への拡散、つまり情報のコピーは自由にできると私たちは思っていますが、量子に記録された情報を確実にコピーすることも不可能なのです。

量子のこのような不思議な性質を「量子性」などと呼び、その量子性を記述するのが量子力学と呼ばれる物理学の理論です。一方で「量子暗号」(正確には量子鍵配送ですが以下では量子暗号と呼ぶことにします)とは量子、主に光子と呼ばれる非常に微弱な光がもつ量子性を上手く利用することにより、通信の際に交わす情報が第三者に盗まれる恐れのない暗号のことを指します。

―――ありがとうございます。昨今注目を集めている、量子暗号とは具体的にどのような技術なのでしょうか?

量子暗号がもつ最大の長所は原理的に盗聴不可能であることです。つまり、離れた地点にいる送信者と受信者が無線や光ファイバーなどの通信路上で情報をやり取りする際に、量子暗号を使えば通信路上での如何なる盗聴、たとえそれが通信路そのものを乗っ取る盗聴であろうが、何万年後の未来の技術を用いた盗聴であろうが情報が漏れることは絶対にないような暗号です。

現在インターネット上で用いられている暗号(現代暗号)を盗聴するためには素因数分解などの数学の問題を解く必要があります。つまり、情報を守っているのは数学の問題の難しさです。これは、将来計算速度の速い計算機が開発されたり、問題を解くための新たなアルゴリズムが発見されたら現代暗号は破られてしまうことを意味します。

しかし、量子暗号は量子が持つ量子性、つまり自然法則を上手く利用することによって情報を守ります。量子暗号から情報を盗むためにはこの自然法則を破らなければならないように量子暗号は作られています。しかし、自然法則を変更することは不可能なので、量子暗号も安全です。

量子暗号では光子を生成しそれに情報を載せるための操作をする送信器と、光子に載せた情報を読み取るための受信器、そして送信器と受信器をつなぐ通信路が必要です。つまり、アプリを送受信者がインストールすれば使える現在のインターネットで用いられているソフトウェア暗号とは違い、量子暗号は専用の送受信装置を必要とするハードウェア暗号になります。

実際の量子暗号装置を安全にするには受信器・送信器の理想と現実のギャップを埋めることが求められる(現状)


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―――量子暗号の研究を始めるきっかけや動機は何でしたか?

大学院の進学先を探していた学部4年生の頃にたまたま図書館に行った際に、友達がふと手にした本の表紙に書かれていたのが量子暗号や量子コンピューターという言葉でした。

その時になんとなく量子暗号というキーワードを覚えていて、何か新しそうで面白そうだなと思っていたところ量子暗号や量子コンピューターを研究されている研究者の先生との出会いがあり、その先生に無理を言って指導をお願し承諾していただけるご厚意に恵まれた、いうのが経緯です。

その後、量子暗号が理論的にはどのような盗聴に対しても安全だと証明された、とその先生から聞き衝撃を受けそのままこの世界で研究を続けています。この分野の研究を始めてから25年経ちます。

―――量子暗号の安全性解析の中で、最新の発見や成果はありますか?

量子暗号は原理的には安全ということが証明されていますが、この証明は送信者と受信者が用いる量子暗号装置がある条件を満たしているならば安全という、条件付きの証明になっています。

残念ながら初期の証明では、量子暗号装置に雑音などの不完全性が一切なく、また装置から思わぬ形での情報漏洩や装置そのものに対しての攻撃(サイドチャネル攻撃)も一切ない、というかなり理想化された装置を仮定していました。

問題は実際の装置がこのような理想化された条件を満たすことが非常に困難であるために、これらの安全性証明を実際には使えないということでした。つまり、装置における理想と現実のギャップを埋める必要があります。量子暗号には送信器と受信器があるのでギャップもこれら二つに存在します。

まず、受信器に関しては2011年にトロント大学のLo教授らによって提案された『測定装置無依存量子鍵配送』という方式により、どのような不完全性やサイドチャネル攻撃が受信器に存在していても安全な通信ができるようになりました。

その一方で送信器の対策は不十分でした。そもそも、多種多様な不完全性やサイドチャネル攻撃を定量化するために、送信器のどのようなパラメータを測定すれば良いのかすら分かっていない状況だったのです。

私たちは現実的に考えられるあらゆる不完全性やサイドチャネル攻撃を防ぐためにはどのパラメータを測定すべきかを明らかにし、さらにそれらのパラメータの値が分かっているときに安全な通信を行うための方法も明示しました。

この手法を『測定装置無依存量子鍵配送』と組み合わせると、現実的に考えられるどのような不完全性やサイドチャネル攻撃が量子暗号装置にあっても盗聴不可能な通信を実際に行えるわけです。また、近い将来にはこのような理論が量子暗号の標準化にも役立つと期待しています。

量子暗号の実用化には速度の向上、通信距離の遠距離化、実装置による通信の真の安全性保証などが求められる


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―――量子暗号技術が現在どのような段階にあるのか教えていただけますか?

ほぼ実用段階で、各国が莫大な予算を使ってその実用化に向けて動いていますし、量子暗号装置や関連部品を販売する企業やベンチャー企業も多数あります。様々な予想がありますが、2030年頃の量子暗号の市場規模は国内だけでも約700億円ほどだとされています。量子暗号だけでなく、量子コンピューターや量子通信の研究開発に対して欧米諸国、中国、日本などの各国は年間数百億円規模以上の投資を行っています。

また、社会実装面では中国は量子暗号ネットワークを2025年までに中国全土に広げる計画をしていますし、EUでは27か国が協力して量子暗号通信網の構築に向けたプロジェクトが始まっています。米国でもウォールストリートに量子暗号ネットワークを導入する計画もあります。

日本でも情報通信研究機構の主導で東京QKDネットワークという量子暗号ネットワークが首都圏に敷設されています。このネットワークは世界で2番目にできた歴史のあるネットワークで、現在は名古屋、京都、大阪、高知の拠点と接続し電子カルテデータなどの重要データの安全な伝送と秘密分散を用いた秘匿保管に向けた試験が行われています。

安全性の面では今のところ装置の不完全性やサイドチャネル攻撃対策は完ぺきではないまでも、現在の技術を用いて実際に盗聴を行うのは非常に困難だと思います。

―――量子暗号の実用化に向けての最大の課題は何でしょうか?

広く社会に使われる、という意味での実用化に向けての課題としては以下の3点があります。

まずはインターネット通信との共存です。一部の量子暗号方式はインターネット通信との共存ができているとはいえ、多くの方式は専用の光ファイバー回線などの専用通信路を必要としています。インターネット回線との共存の研究がさらに進み、共存ができるようになればさらに良いです。

2つ目は通信速度があまり速くなく、通信距離も短いことです。受信器と送信器間の距離を50km程度にした場合の通信速度は10Mbps程で、少し遅い通信となっています。やりとりしたいデータの通信をしていない時に、バックグラウンドで暗号鍵を配布し続けることによりこの問題に対処できますが、将来的にはより高速な通信が必要だと思われます。

また通信距離を補うために現在では信頼できる中継拠点を複数用意し数珠つなぎで通信を行っていますが、これらの拠点を除いた方がネットワークの安全性としては好ましいです。これを取り除くために量子中継器という概念の提案がなされています。しかし、その実装の技術レベルは量子暗号とはけた違いに高く、まだまだ研究をしていく必要があります。

3つ目の課題は本当の意味での実装置の安全性です。前述のように、現状の装置に不完全性があるからといってこれから情報を実際に盗むのは現在の技術的に難しいと思います。とはいえ、未来の技術発展に向けてこの不完全性を埋めていく必要があり、例えば前述の方式を実装するなどの対策を進める必要があります。

現在インターネット上で用いられている暗号(現代暗号)ではいくらアップデートしても安全性の根幹の部分は将来計算速度の速い計算機が開発されたり、問題を解くための新たなアルゴリズムが発見されたら破れてしまうのですが、量子暗号はそうではなく、不完全性を埋めていくアップデート作業をすればするほど安全になっていく安心感があります。

量子暗号の実用化は紀元前3000年からの人類の悲願である(未来の考察)


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―――量子暗号が広く実用化されると、社会や通信技術にどのような影響が考えられますか?

情報漏れのリスクが大幅に低下するので社会がより安心なものになると思います。今後、量子コンピューター開発などの技術革新によって計算機の速度が劇的に上がることが予想されます。速度の速い計算機は創薬や材料開発などの分野で使用すれば社会にとって大きなプラスになりますが、一方で盗聴に使用すれば暗号を楽々破ってしまう危険性をはらんでいます。量子暗号が実用化されれば、そういった技術革新の負の側面に対応できると考えられます。

―――今後の研究や技術革新の方向性はどのようになると考えていますか?

インターネットは量子性を直接伝送できる量子インターネットに変わっていくと予想されますが、それはやや遠い未来だと考えています。まずは量子暗号のネットワークができてくるでしょう。そこから暫くして量子インターネットが広がっていくことになると思います。

―――ありがとうございます。量子暗号研究の最終的な目標や意義はどのようなものでしょうか?

最終的な目標は実際の装置を用いた絶対安全かつ、利便性に富んだ暗号の開発です。そもそも暗号は少なくとも紀元前3000年から存在している概念です。その頃からの未解決の問いである『本当に安全な暗号はどのように実現するか?』に対して回答するということが最終的な目標がもつ大きな意義の一つです。量子暗号の実用化は人類の壮大な悲願と言っても過言ではないと考えています。

科学は身近で不思議なもの


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―――未来の通信技術において、読者や一般の人々が知っておくべきことやアドバイスは?

量子暗号や量子インターネットの実現に向けた努力は、研究者だけでなく多くの人が担っているものです。このような未踏の技術を発展されるためには社会からのサポートや理解がとても大事だと考えています。

『科学はなんか難しそうだし、すぐには役に立たない』とはまあ言わずに、『科学はなんか不思議で、実際に生活の役にも立つ時もあるみたいだな』と言うおおらかなスタンスでいていただけるとありがたいです。

もちろん、技術が発展したからと言ってその技術を使うだけなら技術の仕組みを理解する必要はありません。しかし、量子通信の背後には一つの物が複数個所に同時に存在することができる、など我々にとって非常に不思議な量子の世界があるということを少しでも知ってもらえると嬉しいです。我々の体も原子や分子といった量子暗号が利用している量子性を持つ物質からできている、と考えると量子や量子暗号を少しは身近なものだと感じることができるのではないでしょうか?

最近、量子暗号や量子コンピューターなど『量子』という言葉をニュースなどでもよく聞くようになりました。かつては物理の研究者などのほんの一部の人しか知らなかった『量子』という言葉が世間に広がったことは、量子技術の研究がもたらした社会貢献の一つだと思っています。また、技術的には光子、原子、分子などを直接扱う量子技術の最近の進展は、究極的に小さな物を扱えるほどの領域に人類が辿り着きつつあるということで、これは私たちが歴史的に大きな瞬間に立ち会っていることを意味しています。

新井那知
ライター
So-gúd編集部
新井 那知
埼玉県・熊谷市出身。渋谷の某ITベンチャーに就職後、2016年にフリーランスライターとして独立。独立後は、アパレル、音楽媒体、求人媒体、専門誌での取材やコラム作成を担当する。海外で実績を積むために訪れたニューヨークで、なぜかカレー屋を開店することに—-帰国後は、クライアントワークを通してライターとして日々取材や編集、執筆を担当する。料理と犬、最近目覚めたカポエイラが好き(足技の特訓中)。
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