緑のイノベーション—摩擦低減から見る持続可能な未来
自動車や飛行機、人工衛星に至るまで、あらゆる機械部品に関係するのが「摩擦・摩耗・潤滑」というキーワードです。機械が故障する原因の多くが摩擦や摩耗による劣化であり、適切に潤滑させることで寿命を延ばすことができます。
こうした、摩擦・摩耗・潤滑を科学する学問領域が「トライボロジー」です。トライボロジーは、人類が紀元前から活用してきた「縁の下の力持ち」ともいえる知識・技術でありながら、新しい技術を取り入れることで持続可能な社会を実現する可能性を秘めている学問でもあります。
今回は、トライボロジーを研究する宇佐美教授の研究内容や具体的な取り組みを伺い、トライボロジーを活用した将来の可能性や持続可能な社会の実現について考察していきます。
受賞歴:日本機械学会功績賞(機素潤滑設計部門)、日本機械学会フェロー、ICM&P2022(International Conference on Materials and Processing、日本機械学会機械材料・材料加工部門国際会議)優秀講演章
摩擦・摩耗・潤滑の学問「トライボロジー」
出典:ウィキペディア (右)カフラー王のピラミッドと大スフィンクス (左)Nineveh and Babylon - a narrative of a second expedition to Assyria during the years 1849, 1850, and 1851 (1882) (14580556070)
―――先生の研究領域と専門テーマについて教えてください。
テーマとしては「持続的発展可能な社会構築に寄与する表面の不均質構造化による摩擦損失の低減」です。学問領域としては「トライボロジー」と呼ばれていますね。トライボロジーとは、潤滑や摩擦・摩耗・潤滑など「相対運動しながら互いに影響し合う表面の間に起こるすべての現象を対象とする科学と技術」のことです。一言で説明するなら「摩擦を科学する」学問といえますね。
身近な例を挙げるなら、授業などで使う黒板にはなぜチョークで字が書けるのか。これはチョークが摩耗して、その粉が黒板に付着するからです。これも摩擦・摩耗の現象なのでトライボロジーの領域ですね。
―――トライボロジーが関わる具体的な技術にはどんなものがあるのでしょうか?
例えばハードディスクの情報読み取るスライダヘッド、自動車のブレーキやタイヤなどがわかりやすいですね。それ以外にも、事故や病気で関節機能に障害が出てしまった方が使用する人工関節や、人工衛星に取り付けられる太陽光パネル、さらに地震の研究に関することまで幅広く扱われています。
ナノレベルの小さな摩擦から、人工関節のように生体で機能する「バイオトライボロジー」、人工衛星のような宇宙空間で動作する「スペーストライボロジー」、そして地球のプレート同士の摩擦によって起こる地震の研究である「ジオトライボロジー」と、摩擦に起因するさまざまな現象に関与しています。非常に幅広い分野にまたがる「分野横断基盤技術」といえるものではないでしょうか。
―――非常に身近でありながら影響が大きな学問領域なのですね。
そうですね。例えばエジプトのピラミッド建造時の石の運搬には丸太が使われていたようですが、紀元前にはもう「滑らせる」より「転がす」ほうが摩擦が小さいことを人々は知っていたわけです。
トライボロジーによる影響の大きさがわかる話として、こんなエピソードがあります。60年ほど前にイギリス政府がケンブリッジ大学のジョスト教授に、潤滑の管理によってどれだけの省エネルギー化が可能なのか調査を依頼したことがありました。その結果、潤滑を適正化することでイギリスの国家予算の10%が賄われるという「*Jostレポート」という報告が提出されたんです。
摩擦を減らすことで直接的に得られる効果だけではなく、例えばメンテナンスインターバルの削減や機械の寿命が延びるといった間接的な因子も含めるとトータルで5億ポンド、日本円にして5,000億円という経済効果が見込まれるということだったんです。そこからトライボロジーの重要性が認められたという経緯があります。
出典:「トライボロジーの基礎」
新しい潤滑被膜の形成を目指して
セリサイト(絹雲母)の原石と電子顕微鏡像(三信鉱工(株)提供)
―――先生が現在取り組んでいるプロジェクトについてお聞きできますか?
部品などの表面に特化して、接触する部分の機械的な性質を制御することで潤滑しやすい構造をつくることです。「滑る」というと、漫画的な表現でバナナの皮で滑って転ぶというイメージがありますが、実際にはバナナの皮だけでは滑りません。バナナの皮で滑る理由は、皮が押圧されることで繊維部分に入っている水分が染み出るからなんですが、布団の上に置いたバナナの皮を踏んでも転ぶことはないんです。何が必要かというと、硬くてフラットな場所にバナナの皮を置くことです。
硬くてフラットな表面に対して、油でもバナナの皮でも、柔らかいものを置くとよく滑ります。以前、北里大学医療衛生学部の馬渕教授が、ナスやリンゴ、オレンジの皮などと比較して「滑るメカニズム」を解明したことでイグノーベル賞を受賞されました。実はこのメカニズムは機械部品にも適用できるんです。
先ほど私の研究テーマとして「表面の不均質構造化による摩擦損失の低減」を挙げましたが、これは硬い床とバナナの皮のような「不均質」をコントロールして作ることで、油膜の切れにくい表面構造を機械部品で実現しようというものです。
―――実際にはどのような素材を活用されているのでしょうか?
材料として注目しているのは、化粧品のファンデーションの原料にもなっている「セリサイト」という鉱物です。日本には愛知県北東部に位置する三信鉱工株式会社所有のセリサイト鉱山があるんですが、実はそこから採集されたものが世界中の化粧品に用いられています。日本以外の国でも採取はできるそうなんですが、品質の問題もあって日本のセリサイトが使われるそうです。
このセリサイトが、どうやら非常によく滑る素材となる可能性が高いということで、現在研究に取り組んでいるところです。具体的には、セリサイトを軟質金属と混合して従来の鋼や鋳物、アルミニウム、あるいはチタン合金の表面に成膜することで新規の潤滑皮膜を形成したいと考えています。技術としては、既存の機械加工やレーザー加工などをどのように組み合わせるべきかを検討しているところです。
自動車業界における摩擦の課題とは?
図 IEAが示した技術シナリオ (出典)IEA 「ETP(Energy Technology Perspectives) 2017」に基づき経済産業省作成
―――トライボロジーは自動車などとも非常に相性の良い研究なのでしょうか?
そうですね。自動車部品には摩擦・摩耗・潤滑が関わる部品が非常に多いので、故障の原因となるのも摩耗による劣化や精度低下、潤滑不足による焼き付きなどです。潤滑のためには硬さが異なる不均質な構造が必要だと説明しましたが、自動車だと油膜のような柔らかい層がなくなると故障の原因になってしまいます。この柔らかい層が絶たれることがないように表面に特化した材料をつくることで、産業社会の省エネルギー化につなげるのが私の研究です。
「油断」という言葉の語源にはさまざまな説がありますが、その中の一つに比叡山延暦寺根本中堂の「不滅の法灯」という話があります。延暦寺には1200年も絶えずに続いている「不滅の法灯」というものがあり、これを絶やさないためには僧が毎日油を注がなければならないという話です。この油が絶えてしまうのが「油断大敵」ということですね。
機械部品などにおいてもこういう「油が絶える」状況をなくすことが私の目標ですので、開発指針として「油断大敵を克服する」という言葉を掲げています。具体的には、どのような環境でも油膜が切れることなく介在する摺動(しゅうどう)面を形成することで、焼き付きなどの深刻な故障をなくしたいと考えています。
―――トライボロジーは、自動車の環境負荷低減や低燃費化にどのように寄与するのでしょうか?
CO2を削減するという観点から、現在は世界的にモーターを動力源とした電気自動車が注目されていますが、我々はエンジンがなくなることはないと考えています。実際に、IEA(国際エネルギー機関) が示した技術普及シナリオにおいても、2040年の段階でエンジン搭載車が80%を占めると考えられているんです。
ただ、エンジンだけでなくモーターであっても動力が複数の軸受で支持される点は変わりません。したがって、形態が現行の自動車とは異なったとしても、摩擦損失を低減することは環境負荷低減や低燃費化においては不可欠な技術です。先ほど「油断大敵」という四字熟語で説明しましたが、加工手法に関していうなら、時代を重ねて新しいものを採り入れながら本質を忘れない「不易流行」を心がけています。
こうした考えのもとで現在開発しているのは、摩擦係数が1/10000以下になるような、よく滑る摺動面の開発です。わかりやすく説明すると、1トンの自動車を100グラム、例えば指一本の力で移動できるようなものですね。そんな低摩擦を実現したいと考えています。
未来においてもトライボロジーの役割は不変
―――燃費向上などにおける未来への期待などはありますか?
現在、潤滑油として使用されているのは原油を精製した油です。確かに機械部品には欠かせないんですが、これを適当に廃棄すると大変なことになります。先ほど、エンジンはなくならないという話をしましたが、環境負荷を低減すること自体は非常に重要です。
具体的には、同じ油であっても「生分解性油」「植物油」といったものをもっと実用化できるようにさまざまな技術が歩み寄ることができれば、環境負荷はさらに下げられるのではないかと考えています。例えば、航空機燃料ということで植物油の廃棄油を使って燃料を合成しようという通称SAF「Sustainable Aviation Fuel(持続可能な航空燃料)」という取り組みがありますね。
先ほどお話ししたように、これから数十年経っても自動車にはまだエンジンが使われるはずです。経済状況を考えても、現行のメーカーはそんなにドラスティックに製造する機器を変えられません。だからこそ、環境負荷の小さい代替燃料や新しい潤滑油などを我々の分野で提案していくことが重要になるのではないかと考えています。
―――トライボロジーは未来においてどのような役割を果たすとお考えですか?
自動車産業についていうなら、トライボロジーが大きく関連するのは摩擦の制御ですね。具体的にはタイヤと路面の関係やブレーキの摩擦といった、多種多様な問題にトライボロジーが関係してきます。それはエンジンがすべてモーターに置き換わったとしても変わりませんので、トライボロジーの役割は不変です。
環境負荷に対しては、先ほど紹介したセリサイトという鉱物を利用することで「潤滑油」ならぬ「潤滑水」ができるのではないかと考えています。特殊な水を作るのではなく、水を使うことで潤滑させられるような表面を作るということですね。
トライボロジー自体の役割は不変ではありますが、技術の向上や、さまざまな研究分野が協力し合うことで、環境負荷を低減しながら産業機械の省エネルギー化を実現できる可能性をもっています。それが、社会のために限られたエネルギーを大切に使うことにも繋がってくるのではないかと思います。
トライボロジーで持続可能な社会を実現する
―――研究成果を社会に普及させるためには何が必要だとお考えですか?
「トライボロジー」という学問領域を、人に知っていただくということが何より重要だと思っています。私たち教育現場にいる者のミッションは、「教育」と「研究」です。だからこそ、トライボロジーについて知り、その知識と経験を活かして社会で活躍する学生を世に輩出するということに尽きるのではないでしょうか。
現在、修士まで進学した学生のほとんどは軸受メーカーなどに就職しています。つまり、トライボロジーの研究に対する興味を持ったうえで社会に出てくれているのだと思っています。現代の若い世代は「Z世代」などと呼ばれていますよね。確かに「昭和世代」の私たちとは着眼点や志向も異なるのですが、何かに没頭するようになると世代の壁の影響は小さくなるんです。トライボロジーという共通の学問領域に興味を持って没頭した学生が世の中に出ていくことで、私たちの研究成果は間違いなく社会に普及していくと確信しています。
―――最後に読者の方へメッセージをお願いいたします。
トライボロジーは、ピラミッドを例に挙げたように紀元前から人類が活用し続けてきたものであり、ナノ・バイオ・スペース・ジオといった幅広い分野に関連する基盤技術でもあります。既存のものや古いものを大切にし、組み合わせることで新しいものを作りだすという、まさに「不易流行」の学問です。
技術は時間とともに発展を続け、今後は今までになかったような新技術も生まれてくると思います。そんな中でも、トライボロジーはあらゆるものを支える「縁の下の力持ち」として活躍していると知っていただけると嬉しいですね。
冒頭の写真は奄美大島の倉崎海岸です。ここには当方が訪問した中で最も綺麗な海でした。奄美大島では2016年にシンポジウムを開催しました。開催摩擦損失低減を通してこのような美しい景色を後世に残せるよう、微力ながら貢献できればと考えています。
2016年10月に奄美大島で開催されたシンポジウムの集合写真
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