iPhoneが開く新たな医療の扉 – 眼球運動から読み解く身体のサイン
めまいふらつきは男女ともに悩んでいる人が多い症状であり、一般の人が生涯の中でめまいを経験する割合は15〜35%と報告 されています。めまい・平衡障害は年齢を重ねるほど増加し、転倒の危険性が高まります。
生活に大きな影響を与える「めまい」。しかしながら、診断・治療ができる専門医が少ないのが現状です。そんなめまいの診断に新たな風を起こしたのが、目白大学保健医療学部の角田玲子教授です。角田教授は、めまいの際に発生する眼球運動に着目し、iPhoneを活用することで患者さん自身がめまいのデータをとって医師に共有できるシステムを開発しました。
今回は角田教授の研究内容やその背景をもとに、めまい診断の課題や医療の未来について考察していきます。
参考:H.K. Neuhauser. Handbook of Clinical Neurology137, 2016, Pages 67-82.
「眼振」の異常からめまいを診断
―――まずは研究の背景についてお聞かせください。
めまいに悩む患者さんは非常に多いのですが、そのうち回転性のめまいの6割から8割は内耳を原因としています。脳幹梗塞や小脳梗塞といった脳の異常から起こるめまいも存在しますが、そちらは多くても1割程度なのです。
内耳には聴覚をつかさどっている「蝸牛(かぎゅう)」と、体の平衡感覚をつかさどっている「前庭(ぜんてい)」という部分があります。たとえば蝸牛に異常があれば難聴になるため、患者さんは自覚できますし、聴力検査によってどちらの耳に異常があるのか判別できます。しかし、同じ内耳にある前庭に異常が起こっても、患者さんはどこに異常が起きたのか判断できないまま、めまいに苦しむことになるのです。
前庭で起こった異常を判断するためには、無意識の眼球運動である「眼振(がんしん)」を調べるという方法が挙げられます。しかし、激しいめまいが起きているときに通院するのは困難ですし、症状がおさまってからでは眼振の異常が消えてしまっていることもあります。本研究は、めまいに苦しむ患者さんが、自分自身で眼振を録画して医師に共有できるシステムをつくりたいという思いからはじまっています。
―――「眼振」とはどういったものなのでしょうか?
たとえば、頭を左右に振りながらテレビを観ても文字はある程度読むことができます。これは「前庭動眼反射(ぜんていどうがんはんしゃ)」という、頭が動いた分だけ自動的に反対側に目が動く仕組みが働いているからです。実は、本人は意識していなくても、頭を右に振ると左に目が動き、左に振れば同じだけ目が右に動いています。これは、自分の動きによって見ているものがぶれないようにするための機能で、人間に限らず哺乳類には備わっているものです。
この機能がないと、狩りをする動物は獲物に狙いをつけたまま走ることができませんし、逃げる動物も帰るべき巣穴を見失ってしまいます。つまり、生きることに直結する重要な機能なのです。このときに、「頭が動いた」という情報が前庭から入力されて、神経が信号を伝えて目に出力されます。このような頭の動きに合わせて起こる眼球運動の一つが「眼振」です。
―――なぜ眼振を調べることでめまいについて判断できるのでしょうか?
前庭の三半規管の中に「外側半規管(がいそくはんきかん)」という部分があります。ここから出る信号は頭が左右のどちらに回転したかによって強さが変化しますが、安静時にも常に信号を出しています。もし、病気になって右耳の外側半規管が機能しなくなると、左耳だけが信号を出し続けることになります。すると、脳は頭が左向きに回転していると判断してしまい、回転性のめまいが発生するのです。このときに左向きに眼振が出るのでめまいの診断が可能になります。
また、脳に異常があるケースでも特徴的な眼振や眼球運動が出ることがありますので、めまいの診察では患者さんの症状に加えて眼振や目の動きを確認して診断しています。
iPhone眼球運動記録システム「iCapNYS」について
iCapNYSアプリの画像
―――開発されたシステムでは、どのようにして眼振を記録・分析するのでしょうか?
「iCapNYS」という患者さん自身で眼振を録画できるiPhoneアプリを開発しました。このシステムを使用すると、iPhoneのフロントカメラやバックカメラを使って手軽に眼振の動画を撮影できます。iPhoneには最初からジャイロセンサーが入っていますので、それを利用して同時に頭の位置を表示することで、頭の動きと眼振のデータを取得できます。
iCapNYSをダンボール製ゴーグルにセッティングした写真
iCapNYSでの診断時の写真
眼振はめまいの症状が出ているときにしかあらわれず、通院時には消えていることが多々あります。このアプリは、症状が出ているときに患者さん自身が眼振を撮影できるため、医師にめまいの状況を正確に伝えられることが大きな特徴です。医師は、アプリによるデータを見ることで、たとえばメニエール病の発作なのか良性発作性頭位めまい症なのかといった、具体的な診断が可能になります。
―――通常の外来ではどのようにして眼振を診断しているのでしょうか?
外来で眼振を診断する際には、内部に電球が入った「フレンツェル眼鏡」という特殊な眼鏡や赤外線CCDカメラを使用します。なぜこうした機器を使用するのかというと、内耳に異常があって発生している眼振には、一カ所を注視することで弱くなるという特徴があるからです。この現象は、何かを見ようとすると眼振が止まるように小脳がコントロールしているために起こります。
そのため、フレンツェル眼鏡も赤外線CCDカメラも、観察時には患者さんからは周りのものが見えないような工夫がされています。この点はiPhoneアプリを開発する際の大きな課題のひとつにもなりました。
―――「iCapNYS」ではどのように問題を解決しているのでしょうか?
眼振は何かを注視していると弱くなってしまうため、フレンツェル眼鏡や赤外線CCDカメラのように真っ暗にした状態で患者さんに目を開けてもらって撮影するのが理想です。患者さんが何かを注視してしまうと、うまく撮影できません。しかし、スマートフォンではフレンツェル眼鏡のように真っ暗な状態にしてしまうと撮影できませんし、赤外線CCDカメラのように赤外線を使うこともできません。
そこで発想を転換させて導入したのが、真っ白な画面です。画面全体が真っ白に光っていれば、患者さんが一カ所を注視することもありませんし、その光自体が照明として機能します。結果として、真っ暗にしたときと同様に眼振を撮影することができました。
システムの現状と解決すべき課題について
―――現在の研究進捗や直面している課題について伺えますか?
スマートフォンを使った自撮りは、動画の品質に個人差が出てしまいます。上手に撮れる方だけではなく、なかなかキレイに撮れない方もいらっしゃいます。しかし、動画で診断する以上は、誰でも簡単かつキレイに撮れるようにする必要があります。そこで、スマートフォンを中に入れ、位置を固定したうえで眼振を撮影できるダンボール製の専用ゴーグルを開発しました。
ただ、この専用ゴーグルを医師が組み立てて病院で販売してしまうと「医療用」という扱いになり、医師の負担だけでなく料金など患者さんの負担が増えてしまうという問題もあります。そこで、ダンボールメーカーに制作を依頼して、組み立てる前の畳まれた状態で患者さんにお渡しして、自分で組み立てて「自撮り道具」として使っていただくという方法をとっています。
直面している課題としては、現状のデータでは診断が十分にできない可能性があるということが挙げられます。眼振には左右に動くものだけでなく回旋するものもありますが、ピントの問題もあって虹彩が映らないために、回旋が充分に判定できません。ただ、虹彩は指紋と同様に個人を特定できてしまう重要な個人情報ですので、映らないことがメリットになっているとも言えますね。
また、こうした個人を特定できる情報を病院で管理するシステムを作ると病院側の負担が非常に大きくなってしまいます。しかし、患者さんのご自分のスマートフォンに自撮り映像として残す分には問題はありませんから、現状の方法は病院側の負担が増えないということもメリットです。
―――今後改善すべき点などはありますか?
いちばんの課題と言えるのは、診療報酬の部分ですね。例えば患者さんに事前に撮影した動画を送っていただいて、そのデータを確認しながら遠隔診察するということも技術的には可能になりますが、現在の医療費の設定では動画を使った診察が認められません。来院してCCDカメラを使って診察すると、3,000円から3,500円くらいの収入になりますが、遠隔診療でアプリを使うとゼロになってしまいます。
遠隔でも診療できることは大きなメリットですが、医療機関としては診察しても収入にならないので、このような技術が広まっていきません。将来的に、こうした新しい診療方法を認めてもらえるような医療体系になっていくことを期待しています。
iPhone眼球運動記録システムがもたらす医療の未来
―――この技術が今後どのように医療や健康管理に変化をもたらすとお考えですか?
めまいにもさまざまな種類があって、たとえば片頭痛の症状をもつ方にもめまいが起こることがよくあります。「前庭性片頭痛」という病名がついているのですが、この病気の方はめまいが出ているときに眼振が出ていることもあれば、出ていないこともあって、診断に結びつく眼振があるのかわかっていません。
しかし、この片頭痛に悩んでいる方がこまめにご自身で眼振を撮れるようになれば、そのときの頭痛やめまいの程度と眼振の所見をリンクして記録できるようになります。そうなれば、前庭性片頭痛でみられる眼振については現在以上の知見が得られると考えています。
また、グルグルと回る感覚が出ることが多い「メニエール病」についても、先に耳鳴りや耳が聞こえにくいといった症状が出てから発作が起こる方が多いのですが、事前に症状がない方も少なくありません。そのため、旅先や仕事中でも気を抜けないというお悩みをよく耳にします。
めまいにお悩みの患者さんには「めまい日記」という記録をつけていただくのですが、この日記と眼振の記録を統合できれば、その方のめまいの発作が起こる予兆がわかるようになるかもしれません。メニエール病を例に挙げると、天候で発作が起こりやすい方や睡眠時間やストレスが影響する方などさまざまですが、予兆がわかれば対策が立てやすくなるはずです。
将来的に毎日血圧を測るような感覚で眼振が撮れるようになると、より多くの知見が得られると考えられます。そこまでいったら、AIで解析もしていきたいですね。
―――AI解析ができると、めまい対策はどのように進化するのでしょうか?
まだすぐにAI解析を導入できるわけではありませんが、ChatGPTを活用した解析が可能ではないかと考えています。
「おはようございます。まずは目の動きを撮りましょう」
「今日は眼振が出ているので要注意ですね」
「右向きに眼振が出ています。聞こえ方や耳詰まりは大丈夫ですか? 片耳が詰まっている感覚がある場合は病院に行きましょう」
……AI解析を導入することで、こういったアドバイスが自動的にできるようなシステムができたら素晴らしいですね。眼振を、血圧と同じように朝起きたときと夜寝るときなどにスマホで撮影するだけなので、患者さんの負担も大きくはありません。1人の患者さんの目の動きを解析して、その方の生活リズムやめまい発作のデータを蓄積すると高精度のアドバイスができるのではないかと思っています。
“めまい難民”をつくらないために
―――先生はこの研究の意義をどのようにお考えですか?
私自身が研究の一番の目的としているのは「めまい難民をつくらない」ことです。開発したシステムが実際に広く活用されるようになれば、それは医療技術の未来を築くとともに、めまいに悩んでいる方を取り残すことなく手を差し伸べる手段になると考えています。ただし、そのためには現場の問題もクリアしなければなりません。たとえば、アプリを利用したオンライン診療であっても外来での診療と同等の保険点数がつくようになれば、一気に技術は進歩するはずです。
現在、耳鼻科の専門医は日本に約8,500人いるそうですが、そのうち学会が認定しているめまいを専門とする「めまい相談医」は、わずか830人です。めまいで脳外科や救急外来を受診して脳に異常がない場合は、耳鼻科の受診を勧められるのですが、実際は耳鼻科専門医の全てがめまい診療が得意なわけではありません。ふらつくという症状をもった方の生涯有病率は17~30%、回転性めまいの生涯有病率は3~10%ですので、めまい相談医1人に対して患者さんの数は4,500人~3万人になります。
医師が1人で何千人、何万人もの患者さんを診ることはできませんので、めまい難民をなくすためには適切な眼振診断アドバイスができるAIが有効かもしれません。めまいを専門としない医師にアドバイスができるAIシステムとしても活用できれば理想的ですね。
―――最後に読者の方へメッセージをお願いいたします。
ある患者さんが、頻繁なめまいに悩まされていました。でも、めまいの時は大変辛くて病院に行けず、少し症状が落ち着いてから病院に行くと眼振の異常は消えていたため、医師には「眼振がないとわかりません」と言われたそうです。そんなことが続くうちに、その方は精神状態まで不安定になってしまったのです。
しかし、このアプリで眼振を確認できるようになり、実際に繰り返しめまいが起こっていることがわかりました。治療でめまいがなくなったわけではありませんが、「あなたが訴えているめまいは確かに存在しています」と伝えられたことで、患者さんはとても救われたそうです。
患者さんは、めまいで辛い思いをしていたのに病院では眼振はないと言われ、誰も自分を信じてくれないという思いを抱えていました。めまい症状以上に、自分の苦しさを誰もわかってくれないことが辛かったそうです。こんな悩みを抱えている方は少なくないのではないかと思います。
開発したシステムの導入は、こんな患者さんに手を差し伸べる手段になりますし、まさに「めまい難民」をなくすことにつながっていくと考えています。めまいに悩まれている方は、ぜひアプリをお試しください。
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